M-press『三日坊主』 ― 個性重視で人を育むこととは ―
飽きっぽくて、何をやっても長続きしないことを称した表現が『三日坊主』です。
また、そういった人のことも『三日坊主』と呼びます。
決心して僧侶になったのに、戒律や修行の厳しさに耐え切れずたった三日でやめてしまう意味から出ています。
英語の慣用句では、『Soon hot,soon cold』(熱しやすきは冷め易し)と表現されるようです。
小生は、どちらかというと、この三日坊主のタイプで、飽きっぽく、熱し易く冷め易い、そして落ち着きがないなどと、両親からも繰り返し言われてきて、自らもその自覚もありました。
幼少期にそろばんを習っても長続きせず、剣道を始めたがすぐに野球に目移りして剣友会をやめてしまう、学習塾に仲間がみんな通っているから行かせてくれと自ら申し出ておきながら、一ヶ月もたないなど三日坊主を繰り返しておりました。
当然、両親は強くそんな息子に指導をします。
そうして、自分はあきっぽい性分なのだと、そういう中途半端を禁止されればされるほど、自らに対してそんな性癖を強く認識づけてしまったようです。
つまり、両親としては、ひとつのことに集中して励んで完徹していくことを息子に身につけさせたいので、続けることの大切や、ひとつのことが成就されるまで頑張る気持ちを息子に指導するものの、息子にとっては完全に裏目になってしまい、自分はあきっぽい人間だと強く思い込んでしまうというお話です。
蛇足ながら、感情はイエスとノーとか、良・否として認識することができないものだそうで、『あきっぽくなるなよ』『あきっぽいのは良くないことだ』と禁止をされても、強くあきっぽいと刷り込まれているので自分で禁止すればするほど、『自分はあきっぽい性格だ』という潜在的思い込みが呼戻されてくるというわなに陥っていくことになります。
したがって、『あきっぽい』『三日坊主』と自分が言われることに、非常に抵抗感を持つようになり、そういった指摘を受けると、猛烈な反発心など、嫌な感情を呼び起されてしまいます。
極度に、あき症だと指摘されることを嫌うので、意地でも続けていって止めないという一種の反動や反骨精神を基盤に生きてきました。
自分の好きなことやしたいことと対極にあることでも、また非常につらい状況に追い込まれている場合でも、我慢という選択肢はあっても、途中で止めるという選択肢は持てませんでした。
おそらく、昭和初期ぐらいからのお生まれの皆様や、戦前生まれのご両親から教育を受けて来た我々の世代までは、我慢は当たり前のことで、ひとつの道を脇目も振らずに突き進むのは当然だと意識付けられました。
私のあき性抵抗症と同様に、皆そのように子供の頃から認識付けられてきた、生き方の癖があって当然で、それが個性だと思うのです。
《なくて七癖(ななくせ)…》
正式には、なくて七癖の後ろに『あって四十八癖』というのが続くことわざです。
一見、癖のないように見える人でも七つ、癖の多そうに見える人には四十八もの癖があるとの意味から生まれたことわざです。
英語の慣用句では、『Every man has his fault.』(=誰にも欠点がある)と表現しているようです。
和洋とも、人には誰しもたくさんの癖があっても当たり前、(そんな風に人を見て、自分も参考に人を学び、他人の癖をしっかり見て活かして)冷静に対処しましょうという意味だと思います。
( )内は小生の解釈です。
さて、癖は直さなければならないもの、癖は欠点だと捉えると弊害が出る様です。
人間の個体差が個性ですが、その個性=特徴=個人の癖であり、その癖は長所と短所の特徴が裏腹に同居しているために、癖を直すと長所も消えるからなのです。
つまり、『行動が遅い』という欠点と持つ人は、見方によっては『慎重だ』『落ち着きがある』などの長所を併せ持つ人なのだと思います。
また、逆に『すばしっこい』『決断が早い』などを長所とされる人が『軽率』『慌てん坊』なのかもしれません。
『臆病と慎重』『頑固と意志が強い』『場当たり的と臨機応変』『ワンマンと統率力』『優柔不断と思慮深さ』など、長所と短所は二面性を併せ持つものだと思います。
長所と短所は表裏一体です。
その表裏を入れ替えて、違う見地から良いところを見ていくことをリフレーミング(違う枠組みで置き換えて見る)と呼んでいます。
長所や欠点というのは、見る側が主観的にその人を見て判断していることで、見る側が見かたを変えていくと違って見えることです。
そして、家庭や企業などの社会的人間集団をつくっていくことや、人を活かして伸ばしていくことには、こういった良き個性を見出して育んでいくことが重要なことだと感じます。
優れたリーダーというのは、そんな発想で人を見ていける人なのだと思います。
後世にたくさんの後継者を残していく指導者がいます。
この原稿作成時点で、熱戦を繰り広げている高校野球から話題を探ってみます。
《人は死して名を残す》
正式には、『虎は死して皮をとどめ』が前に付きます。
虎が死んだ後にも美しい毛皮を残すように、人は死んだ後に名前を残すような生き方をすべきだという、中国古典の『十訓抄』の教えを起源とすることわざです。
虎は死んだ後その毛皮が珍重され、偉業を成した人は死んだ後にその名を語り継がれるので、人は名誉を重んじることが大切だという教訓として使われます。
英語の慣用句では、『Live well and live forever.』(=立派な生き方をすれば永遠に生きることができる)と表現されるようです。
さて学生野球の功労者で、今年5月29日に79歳で世を去った指導者がいます。
読売巨人軍の原辰徳監督の父で、同軍の現役投手菅野
智之選手の祖父でもある、原貢(みつぐ)氏です。
原貢氏は、20代で福岡県大牟田市の県立高校・三池工業高校の監督となり、30歳の時に三池工業を甲子園初出場で、並み居る強豪に競り勝ち初優勝に導き、世間をあっといわせます。
1965年、東京オリンピックの翌年の昭和40年の快挙で、後にロッテオリオンズのエースとなる豪腕・木樽(きたる)投手を擁する銚子商業を決勝で撃破しての驚きの優勝でした。
その後、三池工での戦いぶりと指導手腕、原の生き様に感銘を受けた東海大学の
創設者で当時総長でもあった松前重義氏の招きで神奈川県の東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。
創設7年目の新設校の東海大相模高を夏の甲子園2回目の出場で初優勝させます。
彼は当時35歳でした。
さらに、甲子園では夏の優勝1回&準優勝1回、春の優勝1回&準優勝3回の強豪チーム・東海大相模へ育てる基礎をつくります。
息子・原辰徳氏が大学に進む1977年(42歳時)には、東海大学野球部の監督に就任、こちらでも首都大学リーグ7連破を含む13度のリーグ優勝を原貢監督自身が達成、後継監督も含めると66回ものリーグ優勝、大学日本一も4度する強豪大学に育てあげます。
49歳時の1984年には、東海大学系列高校野球部総監督に就任し、全国に14校ある東海大関連高の野球部強化に乗り出します。
原貢氏が高校や大学で育てた教え子達が各校監督となり、貢氏没後に全国の予選を戦い、史上最多の4校が夏の甲子園に出場する快挙で彼の恩義に報いました。
東海大付属14校中の4校出場は素晴らしい確率です。
貢氏が以前直接指揮をした神奈川県の東海大相模の門馬監督、山梨県代表の東海大甲府の村中監督は、高校と大学で指導した門下生。
そして、札幌から出場の東海大四高の大脇監督と、千葉代表で出場の東海大望洋の相川監督はともに東海大学で指導した選手であり、門下生でもあるそうです。
マンモス私学の先輩格で、ライバルの日本大学の付属校は全国で22校(正付属10校+特別付属4校+準付属8校、他に女子高1校)だそうですが、こちらは今回の出場は西東京の日大鶴が丘、岐阜の大垣日大の2校の出場にとどまりました。
東海大創設者で政治家でもあった松前重義氏の遺志に、原氏は個性と長期の先見性をみた後継者づくりで応えて成果を出し、自身の死後に教え子が日大を超える夢を叶えたのかもしれません。
ビューティ-クリエータ-のための情報誌 No.211 マックス企画室