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M-press『袖(そで)擦(す)り合うも他生の縁』 ― 人を磨くことの考察 ―

2014年04月30日

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タイトルのことわざは、袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものであるということの表現。

「他生」は、「多生」と書くこともある「今生」(=今生きている世界)の対語で、前世と来世のことをいった意味とのことです。

このことわざの場合の「他生」は特に、前世(過去世)の意味で使われています。

「擦り合う」も「振り合う」や「触れ合う」とも使われ、とってもポピュラーなことわざとなっています。

道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うようなささいな出来事でも、それは単なる偶然ではなくてすべて前世からの因縁によるもの。

だから、どんなささやかな出会いも大切にせよということを教えることわざです。

同じような意味のことわざでは、『つまずく石も縁の端(はし)』もあります。

ふとつまずいた石でさえ、数ある石の中で何らかの縁があって足に当たったものなので、この世の中で出会うことはすべて、何かの因縁で結ばれており、どんな些細なことでも、おろそかにしてはいけないという教えで使われています。

また、『一樹の蔭(いちじゅのかげ)一河の流れ(いちがのながれ)も他生の縁』ということわざもあるそうで、『同じ木陰に宿って雨を避け、隣り合って同じ川の水を飲むのも、前世からの因縁によるものである』ということを意味しています。

偶然に見えることも前世の定めによるものであるから、おろそかにしてはならないという中国の古典『説法明眼論』にある教えとのこと。

英語の慣用句では、『Even a chace Acquaintance  is decreed by destiny.』(=たまたま知り合うのも運命による)と表現するようです。

四月から、卒入学、入社、人事異動などで、新しい環境に飛び込まれた方も多いことと思います。

先輩社会人として、新しい弟さん妹さんのような世代を新たに職場に迎え入れられたお兄さんお姉さん世代の皆様や、自分の子供世代のような人々を迎え入れられた経営者の皆さんも多いことと推察します。

今回は、そうして縁を持った人々に輝いてもらうことを考えてみたいと思います。

《血を分ける》

さて、兄弟、姉妹、親子といったつながりに例えて、人との新たな出会いについて表現してきましたが、出会う人々が、実際に血を分けた本当の親戚かもしれないといったら皆様はどのようにお感じでしょうか。

私達人間は皆、父と母の両親から生まれてきています。そして、その両親にもそれぞれの両親がいて、そんな四人の祖父母がいたから私達が世に生を受けてきたことになります。

四人の祖父母にもそれぞれ二人ずつの曾祖父母がいて、その代にさかのぼると8人の祖先がいます。

そのまた両親がいて十六人の祖先、その前の代で三十二人、そのまた前の代の祖先で六十四人…と、何代、何十代にも渡って連綿と命のリレーが続いた結果、今の私たちの命があります。                                                十代遡るだけで、1,024人のご先祖にもなります。

二十代遡ると、その数はなんと百万人を超えます。

つまり、さいたま市や広島市、仙台市等の百万都市の人口丸々全部分位の人数が全部自分の血の通ってきた祖先ということになります。

さらに、二十代先祖をたどっていくと、その先祖総数はついに一億人を超えます。                          40代さかのぼっての祖先ということは、平均28歳で次代の子供を生んできたと仮定すると、およそ1120年前ということになり、西暦894年の平安時代の中期となり、藤原家が貴族としての勢力を持ち始めて、菅原道真を排除しに画策していたころの時代です。

鎌倉時代の日本の人口が、約500万人だったそうで、平安期末期では多く見積もっても400万人に満たない総人口と言われています。

関が原の合戦から江戸時代に入っていく1600年頃の人口が約1500万人、爆発的に人口が増えた江戸時代末期で3300万人、明治時代末期の明治45年の総人口が5057万人、大正末期で6000万に迫る5973万人の日本総人口だそうです。

初めて日本の総人口が一億人を突破するのは、昭和42年(1967年)で、今から47年前のことです。

私たちの祖先は40代遡った平安時代には祖先延べ1億人中の半数ほどの5000万人は生きていたことになり当時の日本の総人口を大きく上回ってしまう計算になります。

つまり、私たちが初めて出会う人はほとんどが遠い親戚ということになり、日本人ばかりでなく海外の国の皆さんとも遠い親戚である可能性が高くなります。

このような膨大な数のご先祖様が自分の命を使って新しい命を育んで、血や遺伝子を残し続けてきた結果が、私たちなのだと思います。                             そのように考えていくと、私達がこの世に生を受け生まれてきたことそのものが奇跡であり、膨大な数のご先祖たちがはぐくみ育てながら残してきた遺伝子の集合体で、芸術的傑作品といえるのではないでしょうか。

私たち自身がそうして生まれてきたとするならば、自己の存在そのものが芸術品だと自信を持ってもいいと思うのです。

『血を分ける』とは血縁関係にある者をいいます。

しかし、述べてきたように、出会う人出会う人がすべて親戚だと捉えると、人との出会いやかかわり方の意味も大きく違ってくる筈です。

新しく来られたお客様、新しく入ってこられた社員さんに対して、親戚だと思って接していくと、大きく対応が変わってくるのではないかと思うのです。

そのように、初対面から懐かしい親戚と会ったように接していくと、親密感が深まった関係性をつくりやすく、人見知りや警戒感を感じにくくなるようです。

接客業や営業職のような対面が多いお仕事の皆さまには特にお勧めです。

そして、新たなスタッフや社員さんなどの職場の仲間にも親戚がやってきたと思って接してさしあげて欲しいなって思います。

新人社員教育研修も、そんな意識で入っていくと、新たな連帯感や絆がより早く構築できるのではないかと思います。

《玉磨かざれば光なし》

どんなにすぐれた才能や素質を持っていようとも、努力や勉強をして自分を練磨しなければ、その才能や素質を十分に生かして、立派な人になることはできないというたとえで使われることわざです。

いかに美しい宝石の原石であっても、掘り出したまま磨かなければ、光を放たないものです。

中国の古典の『礼記』の中の『学記』に 『玉みがかざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず』(=玉も磨かなくては美しい宝器にはならないように、どんなに優れた才能があろうとも、学問修養を積まなければ立派な人物になれない)という記述があり、それが『玉みがかざれば器を成さず』ということわざになり、さらに平易に『光なし』と変わってきたとのことです。

他にも、『玉磨かざれば宝とならず』、『瑠璃(るり)の光も磨きがら』などの表現で、同じような意味で使われることわざがあります。

もちろん、本人の努力と決意で磨かれていくわけですが、そういった気づきやきっかけ、ヒントを与えていくことこそが、教育であり、先人の努めだと思うのです。

前述の『人学ばざれば道を知らず』で、学び続けるのは自分の意思ですが、道を見つけるお手伝いをしていくのは、先輩の仕事です。

独特の美しい光を放てるように、個性を磨くお手伝いをしていくのです。

『ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない、そして同じように人は人でしか磨けない』といいますが、そういったきっかけを与えていきたいものです。

さて、亡くなってしまいましたが、大好きな指導者像として尊敬する仰木彬(おうぎあきら)氏がいます。

プロ野球の近鉄バッファローズとオリックスブルーウェーブの監督を務められて、弱かったチームを優勝に導いた人です。

元読売新聞東京本社国際部編集委員で現在はフリージャーナリストとして活躍されている宇惠(うえ)一郎氏が仰木氏のリーダーシップについて、JMCA日本経営合理化協会のブログ内コラム『指導者たるものかくあるべし…歴史に学ぶリーダー論…』で書かれていた、イチローや野茂英雄さんなどの仰木氏の活かし方が非常に参考になりましたので、以下引用させていただきます

《…人を活かす仰木彬の「そのままでいい」…》

日本人メジャーリーガーのパイオニアが野茂英雄なら、その道筋を確固たるものにしたのはイチローだろう。
野茂がトルネード投法、イチローは振り子打法と、ともに個性派だ。
そのふたりが「あの人が監督だったから今の自分がいる」と感謝を口にするのが、仰木彬(おおぎ あきら)である。
イチローのプロ二年目、「辞めたい」とオリックスのコーチに打ち明けていた。

高卒で入団して二軍で活躍するものの、一軍での出場の機会は限られていた。
当時のオリックス首脳陣は、イチローの個性を嫌っていた。

独特の振り子打法をやめるように指導するがイチローは聞かない。
「これが僕には合っている打ち方です」。

土井正三監督は「基礎からやり直せ」と二軍行きを命じる。
その三年目、オリックス監督に仰木が就任する。

春のキャンプで、「こいつはレギュラーで使える」と直観したという。
走力、強肩は秀でている。

近鉄監督時代にチームの外から見ての「ひ弱だな」という印象も、随分とたくましくなっていた。
振り子打法にも注文は一切つけなかった。

シーズン通してレギュラーを張れる精神面はどうか、「それは実戦で使ってみなけりゃ分からんだろう」、使うと決めたら、シーズン最初から使い続けた。
そして、この年、20歳の若者は210安打を放ち3割8分5厘という驚異の打率で首位打者を獲得する。
これに先立つ近鉄監督時代には、8チームが一位指名で競合した社会人野球のエース、野茂をドラフトの残りクジで引き当てた。
チームの内外から、「あの変則投法ではプロで通用しない」とフォーム矯正を求める声があった。
本人に聞くと「これが自分のいちばんええスタイル、いじらんでください」と。

社会人野球での実績もある。

「よっしゃ、そのままでいい」と外野の声を無視した。
その個性的な投法を逆手にとって「トルネード(竜巻)」と名付け売り出した。

野茂はデビューの年から四年連続でパリーグ最多勝を上げる。
そして仰木が近鉄監督を去り、後任の投手出身監督は、フォーム改造を言い渡す。いや気がさした野茂は大リーグ・ドジャースへ去る。
野球だけではない。

日本社会は定型を重視し、教科書的な型にはめてよしとする。

優等生指導者ほどそうだ。個性を殺して才能をも殺す。
個性重視の仰木のもとからは、野茂、イチローのほか、長谷川、吉井、木田、田口、野村ら多くの選手が大リーグに巣立っている。

故なきことではない。

…以上が引用コラムです。

鈴木一朗選手を「イチロー」に変えたのも仰木氏です。

平凡な名前を覚え易くして人気者にとの配慮からです。

個性や才能を伸ばし活かす指導者でありたいものです。

2005-12-17

 

ビューティ-クリエータ-のための情報誌   No.207 マックス企画室