M-press『論語読みの論語知らず』 ― 深めていくことの大切さ ―
論語は中国の思想家孔子の言葉や行動を記した書です。
その論語を読み慣れて、すらすらと読めるものの、論語の真の意義を知らない事から発生したことわざです。
書物を読んで、書かれた文字のうわべだけを見て本当の内容を理解してないことのたとえで使われています。
また、書物から得た知識はあるが、その知識を活用できない様子にも使われます。
英語では、『A mere scholar ,a mere ass.』(=学者であるだけなら、ロバに過ぎない)と、手厳しい表現をします。
書物からの知識に限らず、勉強を積んだり、セミナーを受講したりと、私達は数多くの体験を積み重ねながら知識を蓄えていきます。
しかし、蓄えた知識を自分のものにできているかと問われれば、知ってはいても実践できていないことが多い事に気付いて、自らも唖然とすることがあります。
知識を実践に変える事は、とても難しい事と思います。
小生もこのコラムを前任者から12年前に引継ぎ、今号まで142回程毎回書かせていただきました。
書くために幅広い領域の知識を勉強せねばと感じ、柔軟に各方面の書籍を読みあさり、様々なセミナーに参加し、お客様や仕入れ元さんや業界関係者の皆様からも学ぶ姿勢で、お話を傾聴する様に心掛けてきました。
このコラムを書きだして一番の効用が、自ら聴く姿勢に変わった事だと思います。
しかし、そうやって得た知識や情報を、お役立てに活用できているのか、実行して結果を出せるように実践できているかは、まったくの別問題だと思われます。
知っている、そして理解する、さらに実践することの手前に、必要なステップがあると考えているのです。
腑に落ち腹をくくるといったステップで、英語ではコミットメントと呼ばれます。
《腑(ふ)に落ちない》
腑とは、五臓六腑と使われるように、『はらわた』のことをいい、腑に落ちる、腑に落ちないという場合は、『はらわた』=『こころ』のことを指している様です。
さて、感情を感じることは、胸を打つとか、脳にひらめくなど、頭や心臓を例にだすことが多いようです。
一方、腑に落ちる、腹をくくるということは、した腹に力を込めて決意をするといった行為で、下腹部の五臓の中央部に位置する丹田(たんでん)が重要で、身心一如の境地に至るための、大地に根を張る力を持つ大切なポイントといわれます。
文字通りはらわたの中心部にあり、腑に落ちて腹をくくった覚悟を持った決断をする為には丹田を意識して、腹を決める事が大切です。
ところで、何に腹をくくり決意(コミットメント)をするかというと、『何をする』『どのようになる』といった内容で、とりわけそれを『続ける』と決断することではないでしょうか。
『道(どう)』という言葉の付く、極める道があります。
柔道、剣道、合気道、弓道、空手道、茶道、華道、書道、武士道などです。
これらは、室町時代以降に『道』という字がつけられて、精神修養も含めた学びといった思考が加味されたものが多いですが、もともとの『道』の概念は古代中国に発生し、孔子や孟子の説く『徳の道』や老子や荘子の説く『天地萬物自然の源、無為の道』にその源流があるといわれています。
それが、早い時期に日本に伝えられ、日本人のものの考え方に根本的な影響を及ぼしたともいわれています。
ひとつの道を極めるためには、腹をくくり決断し、とことん続けてやり抜いていく必要があります。
『道(どう)』と呼ばれるものは、例外なく型や基本というものを疑わず信じ、みっちり体に染み込ませる様に覚えていくのが第一歩。
理屈なく信じて、体に染み込ませるまでひたすら基本的なことを積み重ねるといった行為は、決して面白い行為ではありません。
『続ける』と決断することに腹をくくるのが大切とは、そういう意味なのです。
そして、基本の型を覚え自分のモノとした後に、自分の個性や独自の技を入れるために次のステップに進むことを師匠より許されます。
『守破離(しゅはり)』は、日本での『習い事』における師弟関係のあり方の一つ。
日本において師弟関係の文化が発展、進化してきた過程のベースとなる思想です。
まずは師匠に言われたこと、その型を『守る』ところから修行が始まっていきます。
その型を自分と照らし合わせ研究し、自分に合う、より良いと思われる型をつくることで既存の型を『破る』ことをしていきます。
最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から『離れ』、より自在になることができるといった考えかたです。
《未来永劫(みらいえいごう)》
さて、丹田に落として覚悟を決めるには、基準となるぶれない真理が必要です。
『すべてに共通で普遍』な絶対的な判断基準が必要で、
これが『真実』の定義です。
他方、同じ『真実』をどのように認識するかは、受け取り手次第で、常に観る側の主観によって色づけられている『事実』によって、人は判断行動をしています。
ひとつの『真実』でも、それを観る見方によって、『事実』はいくつもあり、その『真実』と『事実』を双方が混同してしまいがちなので問題が生じてしまいます。
たとえば、善と悪、苦と楽など相対する現象を使って、相対的に判断をしがちです。
この相対界に身を置いて判断する限り、人は利己的で自分中心な考え方をせざるを得なくなります。
なぜなら、相対とはものごとを主と客に分けて、認識するものと認識されるものとの関係の中で、認識するということだからです。
この場合の主とは常に自分で、自分を中心(主)にして 他(客)を理解するので、主である自分を中心軸として物事を認識し、行動せざるを得なくなります。
ウルトラマンには敵の怪獣、仮面ライダーにはショッカーや怪人が悪役として存在するからヒーローとなれるというのが相対界なのです。
相対界で生きる全員が、自分を主として物事を認識しているので、物事の判断基準が当然変わってきます。
小さな職場でも、国家間でも衝突やいさかいが起ってくるのも当然のことです。
そこで人間は、共通の価値基準を作ろうと努力し、法律やルールをつくりました。
しかし、物事を主客の関係で相対的に認識せざるを得ない世界では、一方の正義は他方の正義とはならず、当事者の力関係や状況変化等によって、法規やルールは大きく変わってきました。
そして、今後も変わらないという保証もありません。
このような相対界には、『すべての人に共通で普遍の真実』という絶対的なものはないのかといえば、見えない背後のところにある、自然や宇宙の原理原則というものが存在します。
そういった絶対的で普遍の原理原則と、人間との関係を捉えて見えづらい真実を学んでいく学問が哲学です。
人生の歩み方や、人間集団の基本原理、理念といったものに哲学が入ってくると、相対的判断でのブレがなくなり普遍の基準ができます。
同じH2Oの水が、環境によって固体=氷、液体=水、気体=水蒸気、のようにまったく別のものに見えるように業態変化をすることを相転移と呼ぶそうです。
固体である氷は一見安定しており、見える世界のもの(現象界)、液体である水は流動的で器によって形を変えて見えそうで見えにくい世界のもの(具象界)、そして気体である蒸気は目に見えないが、爆発的に強烈なエネルギーを持つもの(抽象界)に変化していきます。
成分は同じでもまったく形が違うものに変化します。
人間も同様に固体である見える『身』(現象界)、液体のように形を変えて流動的で見えそうで見えない『心』(具象界)、そして見えないが大きなエネルギーを持つ気体のような『芯』(抽象界)
の『しん』を三つ持ちます。
水の場合は100℃の沸点を超えた熱を加えると、気化し体積はおよそ1700倍もの体積となり、強烈なエネルギーを発します。
このエネルギーを利用したものが蒸気機関です。
『芯』は、はらわたの中心部、へその下の丹田(たんでん)に入れ込む覚悟、決意といったもので、水が蒸気になる時と同様に、情熱という熱さを発し、周囲の人々はそれを感じ取れます。
『芯』『心』『身』の『三つのしん』、『抽象界』『具象界』『現象界』の『三つの象』というように、三つの世界で捉え分析すると、本質が見えてき易くなるそうです。
『抽象界』『芯』の部分は、哲学上では上位概念と呼び、無限の世界観と際限なき広がりの宇宙のようなエリア。
人が天命に生きる世界です。
実際は『天命』(=抽象界)まで辿り着かず、『使命』(=具象界)、『役割』(=現象界)に振り回される人が多いのではないかと思います。
哲学は未来永劫不変なもの、
皆様のご繁栄も未来永劫続く様お祈りし、後継の者に筆を譲らせていただきます。
小生の主筆コラムを142回もの長きにも渡りご高覧いただき感謝しております。
……ハワイホノルル大学大学院哲学博士・横山義幸氏著『真実(ぬくもり)の驚異』(兼六館出版刊)、『横山義幸自伝』(髪書房刊)を参考にし、一部を転用させていただきました。……
ビューティ-クリエータ-のための情報誌 No.212 マックス企画室