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『上手は下手の手本下手は上手の手本』 ― 新人教育についての考察 ―

2013年03月21日

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下手(へた)な者が上手(じょうず)な者を手本にしてまねるのは当然であるが、上手な者もまた下手な者の失敗や不手際などを参考にして上達するものだという意味で使うことわざです。

このことわざは、室町時代初期に、父親の観阿弥(かんあみ)とともに、大和猿楽結崎座の猿楽師から時の将軍・足利義満に重用され、猿楽(明治時代以降には狂言と合わせて能楽と呼ばれる)を大成した世阿弥(ぜあみ)の書物が起源とのことです。

この親子二人が完成させた能楽が『観世流』で現在まで能楽の主流として受け継がれています。

室町幕府三代征夷大将軍・足利義満の時代といえば、豪華絢爛な北山文化の時代になります。

書院造で有名な京都の鹿苑寺金閣が1397年の完成で、それからざっと600年以上も観世流能楽は受け継がれてきた歴史となりますからすごいことです。

私たち企業人が、30年、50年と歴史を存続させることは非常に難しいことで、後継者を三代、四代と積み重ねていくには、崇高な大義や理念、そしてそれらを植え付けていく教育が必要なのだろうと思います。

華のある芸樹的センスを持ち、大看板の超人気スターになっていた父・観阿弥の創ったスタイルを、子である世阿弥がさらに進化させ体系化し、それを指導書や芸術論の書物として数多くの伝書として残したといいます。

そういった世阿弥著作の秘伝の書のひとつである『風姿花伝(ふうしかでん)』にこのことわざは載っているそうです。

「上手はへたの手本、へたは上手の手本なりと工夫すべし。へたの良き所を取りて、上手のもの数に入るる事、無上至極の理(ことわり)也」とあるのがこのことわざの起源だそうです。

『風姿花伝』では、観客(世の人)に感動を与える力を「花」なのだと表現しています。

若い時は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎず、一瞬の輝きだけなのに対して、「まことの花」は心の工夫から生まれていくもので、磨かれてできてくるものと説いています。

能の奥義である観客に感動を与える力(=花)は、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」としてお客様に見えないところの努力が大切であると教えます。

さて、4月は新しい人材を迎える季節でもあります。

教育、特に教える側の姿勢について考察してみたいと思います。

《教うるは学ぶのなかば》

人にものを教えるということは、自分も勉強して良く理解していなければ教える事ができません。

ですから自分も自然に勉強する事になるので、教えるということは、半分は自分も勉強になるという事をいったことわざです。

中国の最も古い儒教の古典のひとつ『書経(しょきょう)』や、その後に礼儀作法を示した『礼記(らいき)』の中にあることばが、そのままことわざになったとの事です。

教えることによって自分の未熟さを知り、学ぶことによって自分の短所を知る意味で、教と学両方があいまって知識も人格も進歩することを言ったものです。

英語の慣用句でもこの意味のものがあり、『Teaching others teaches yourself.』(=他人を教える事は自分自身を教えること)、『We learn by teaching.』(=教える事で学ぶ)と使われるそうです。

近い意味ですが、もう少し深いところをいったことわざに『教学相長(きょうがくあいちょうず)』というのもあります。

こちらは、教えたり学んだりして知徳を助長発展させるということをいったことわざです。

人を教えることは自分の修行にもなり、人間性を高めることにもなるという意味で使われます。

人をしっかり見て、相手を知らないことには充分に教える事ができません。

人をしっかり見ていく事は、自分の人の見方を変えていき、自分自身の見方も変わってきて、自己の人間性が磨かれていくともいわれます。

自分の仕事で目一杯で、人に教えている暇も余裕もないという思いをお持ちの方こそ、与える事や、教えることによって自己成長を大きくできるチャンスが来たと捉えるべきかと思います。

《負うた子に教えられる》

『京都いろはがるた』にも載っている有名なことわざです。

背中に負ぶった子に浅瀬を教えられて川を渡ることがあるように、人は時には自分より年下の経験の浅い者から、ものごとを教わることもあるというたとえで使われます。

正式には、『負うた子に教えられて川を渡る』や『三つ子に習って浅瀬を渡る』といい、略して『負うた子に浅瀬』、『負うた子に浅瀬を習う』ともいうようです。

英語の慣用句では、『The chicken gives advice to the hen.』(=ひよこが親鳥に忠告する)と使われます。

人生経験や職業経験が自分より、仮に少なかったとしても、指導する側にも無い優れた才能や個性を何がしか教えてもらう側も持っているものです。

それを見出してあげて、良い個性を伸ばしてあげられる教育者でありたいものです。

残念ながら、教える側は自分で自ら認識できている長所しか、相手の長所を見てあげられないといいます。

逆説的に言うと、相手を誉めてあげられるとしたら、その誉められる部分は、教える側が自ら既に持っている長所や才能であるともいえます。

そういう部分しか、見てあげられないものらしいのです。

ところが、教える側が自ら持ち合わせている才能とは、もちろんそれだけではないのですが、自ら気づいていないものの方が多く、認識できていないだけだといわれます。

つまり、自分で自らはこういう人間であると思い込んでいて、もっとたくさんある才能を気づいていない面があるのです。

教える側も教えながら、人をじっくり見ていく事で、自ら確認できていなかった自己の隠された才能を発掘して、教え子とともに才能発掘ができてくるともいえるのです。

次に、教える側が特に注意すべき点を考えましょう。

《人の振り見て我が振り》

他人の行いや姿を見て、それを参考に自分の欠点を直すように心がけよという意味で使われることわざが、『人の振り見て我が振り直せ』です。

『他山の石』というのも近い意味のことわざです。

英語では、『The fault of another is a good teacher.』(=他人の欠点は良い教師である)と表現するようです。

反面教師という表現もよく使われています。

さて、相手の行動や態度で非常に気になる嫌な面を発見することがしばしばあります。

そこでもっと強く感情が出た場合には、絶対に許せないこととして、相手を叱責してしまうこともあります。

ところが、周囲の人達から見れば、さほど気にならない行動や態度であったりして、なぜあの人はあんなに怒っているのだろうと不思議な目で見られる事があります。

人間には、思考的な傾向が人それぞれに出来上がっており、それぞれが成長過程で受けてきたしつけや、自己の体験によってこうした方が良い、こうすべきでないといった方法論や禁止事項によって、その思考傾向や判断基準が決まってきているといわれます。

その一人一人が違って持っているものの見方のフィルターを通して相手を見て判断しているともいわれています。

たとえば、後輩を指導していく上で、どうしても我慢できない許せない行動があったとしたら、指導者側はなぜこんなに怒りの感情が出てきただろうかと、一歩引いて自分の感情を感じつくしてみることが大切といいます。

自分が自分に対して強く絶対に禁止してきた行動をシャドウと呼びますが、その絶対にありえないことをあっけらかんとしてしまう後輩がいたとすると、苦手意識を持ったり、怒りの感情が出てきたりする場合があり、そのままでは充分な指導どころか、コミュニケーションも難しくなります。

全てとは申しませんが、先生による体罰、スポーツ指導での暴力、上司からのパワハラ、社内での不調和なども、これが原因のものが多いのかと思われます。

これが、社内・店内で起こると、お客様との関係もぎくしゃくしてきて、苦手なお客様をつくってしまって失客にもつながりかねないので、注意が必要です。

人それぞれの思考の傾向、感情の感じ方の違いなどを学べるのも人を教える事で、相手を良く見ていくことが一番の解決策だと思うのです。

《ヒューマンエラー》

人を指導していく上で、人間は以下のようなヒューマンエラー(人為的過誤)を引き起こしやすいといわれています。

①  ハロー効果…何かひとつ良

いと何もかもが良く見えてしまい、逆にひとつ悪いとすべて悪く見えてしまう傾向のこと。

ハローとは仏の後光の意味で、『あばたもえくぼ』『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』という傾向。

②  寛大化傾向…部下や後輩か

ら良く思われたい、或いは指導者として自信が無い場合にでる。

③  中心化傾向…指導者が自信

が無い、または後輩を良く見ていないため各人一人一人に寄り添っていこうとしない。

または『皆頑張っているのだから皆同じだ』という誤った平等主義に指導者が縛られてしまう。

④  極端化傾向…③とは逆で、ひ

とつの領域にこだわり過ぎたり、偏った人のみ特別に可愛がる傾向の指導をしたりしてしまう。

自らの持論にこだわりすぎた指導者が陥りがちなもの。

⑤  対比誤差…指導者が自分を

基準において相手をそれと比較して見すぎて、指導ができない。

以上、①~⑤総てが自分の色眼鏡を外して人の特性を良く見つつ、それ以上に指導者自身が自分を良く知って成長していくことが重要なのかと思います。