『成らぬ堪忍するが堪忍』 ― 歴史をつくっていくこととは ―
どうしても我慢できないことを我慢するのが、本当の意味での忍耐であることを示した諺です。
「堪忍」は、こらえる・我慢することの意味で使われています。
これに近い諺では、『韓信(かんしん)の股くぐり』という『史記』を起源とする諺があります。
「韓信」とは、漢の天下統一に功績のあった名将で、彼が若い頃に町のごろつきに喧嘩を売られたが、韓信は大志を抱く身であったからごろつきと争うことをぐっと堪えて避けたそうです。
その際、言われるままに、ごろつきの股の下をくぐらされるという屈辱をあえて受けたが、その後韓信は大成し、天下統一のために活躍したそうです。
将来に大望のある者や大志を抱く者は、目の前の小さな侮りを忍ぶべきという戒めや、そういう人は屈辱にもよく耐えるというたとえで使われる諺です。
英語では、『Patience is a flower that grows not in every garden.』(忍耐の花は、全ての庭に咲くわけではない)と表現するようです。
さて、今年7月の、女子W杯ドイツ大会でなでしこJAPANが歴史的快挙を成し遂げました。
なでしこの選手の皆さんも、夢を持って、大好きなサッカーを続けながら、沢山の我慢を重ねてきた歴史があると感じます。
今回は、スポーツから参考になる点を考察したいと思います。
《雨垂れ石をうがつ》
一定の場所に落ちる雨だれは、長い間に下にある石に穴を明けてしまうという意味から、小さな力でも根気よく続ければ成功できるたとえで使われる諺です。
英語では、『Constant dropping wears away the stone.』(水も不断に落ちれば石をも磨り減らす)と表現されます。
今回のなでしこJAPANのW杯制覇の過程は、正にこの諺の通りだと思います。
実は、小生は以前少女サッカーの関係者でしたので、今回の活躍には万感の思いがあります。
娘二人がサッカー少女になり、特に長女は小学校入学前からサッカーボールと戯れていました。
リフティングも男の子達の数倍~十数倍回数ができたり、空中でドリブルしながら地面に落とさずに自陣ゴールから敵陣ゴールに運んでシュートといったスキルもあったりもしたので、男子チームの中でも中心選手でした。
特に、小学校高学年になると、一般的な少年選手より身体能力も少女選手のほうが上なので、少年チームの中心選手に女子選手が1~2人いるチームは良く見受けられました。
ですから、娘も男子クラブチーム、少女だけのチーム、そして県の少女選抜チームと掛け持ちで練習・地域大会・遠征を繰り返すといった、文字通りサッカー漬けで休みがない状態でした。
キャプテンの澤選手始め、なでしこの全選手が少女時代は同じ様な体験をしていたと思います。
当時は、少年期の公式大会に少女は登録制度上出られないことになっており、市民大会やクラブ主催のカップ戦、練習試合にのみ少年チームに少女選手が出場できる状態でした。
公式試合に出たい少女選手は、女子サッカーチームを求めて遠くまで出かけて参加し、そこに登録して出場機会を得る活動をしていたのです。
小生が当時活動していた神奈川県は少女サッカーに対して古くから力を入れていた地域でした。
川崎に読売ベレーザ、平塚にフジタマーキュリーという女子サッカーリーグのトップチームを抱え、ユース世代やジュニアユース世代でも、横須賀シーガルズ等の全国制覇した有力チームが数チームありました。
小学生の少女世代でも、清水草サッカー大会や全国大会を制したチームが多数あり、15年ほど前には県内で30チーム程の少女クラブチームがありました。
その中でセレクションされた選手達が、神奈川県の選抜チームである『やまゆり』として全国大会に遠征していくのです。
今回のなでしこJAPANには、その神奈川県選抜チーム出身の7名の代表が入っており、他に1名が神奈川県のクラブチーム所属だったので、間近で見てきた選手たちが世界一になったことは感慨深いものがありました。
特に、川澄、上尾野辺、永里の各選手は長女と県選抜で同時期を過ごしたメンバーでしたので、よくもここまで成長したなとの特別の思いがありました。
《思う念力岩をも通す》
一心に思いを込めて事に当たれば、どんなことでも成就するということを表現した諺です。
集中させた精神の偉大さの意味も伝えていると思います。
小生も少年、少女、県選抜のコーチとして、審判、大会役員、父兄として遠征にドライバーも兼ねて帯動してきましたが、どんな逆境もはねのけて続ける意思がなければ、世界一になるまで彼女達がサッカーを続けることはできなかったと思うのです。
前述の通り、近隣のサッカークラブチームでは、男の子達に混ざって中心選手になっても公式試合に出られない壁があります。
少女サッカーが盛んな地域でも、少女チームでプレーする為には、車でかなり遠方まで親御さんが送り迎えしなければなりません。
中学へ進むと女子クラブチームは激減し、盛んな神奈川県でも5チームに満たない状況でした。
中学校の部活となると県内に2校程度しかありませんでした。
したがって、中学校に進んだ女子がサッカーを続けるためには、授業終了後に電車やバスなどを使って、独りで遠くまで足を運び、夜遅くに戻ってくる生活を覚悟しなければならないのです。
この段階で有望な女子選手の大半が、学校スポーツにある競技に転向し、サッカーから遠ざかってしまいます。
小生の長女も迷った挙句にバスケットボールに転向しました。
高校も中学と似たり寄ったりの状況で、この時点でまた続けられない状況の選手が増えます。
この段階まで仮に続けられたとしても、クラブチームで遠方から集まって練習できるのは、週に1~2回が精一杯の様で、ナイター照明のあるグラウンドを借りるのも難しく、本当に好きで続ける強い意思があり、家庭の協力もないと出来ない状態が当時の環境だったと思うのです。
その頃の日本女子サッカーリーグ(JLSL・後のLリーグ・更に後のなでしこリーグ)には、企業スポンサーのクラブ、フジタ工業、松下電器LSC、日興証券ドリームレディス、日産レディース、読売西友ベレーザ(現・日テレ)等がありました。
その後も田崎真珠、シダックス、シロキ、鈴与(清水)、沖電気等女子サッカーに協力的な企業スポンサーが多数現われましたが、不況期の経営問題などでことごとく撤退し、結果として現在選手たちが日本のなでしこリーグでプレーしようと思うと、プロとして出来る人は一握りで、臨時社員やパート、アルバイトで生活をやり繰りしながら、練習時間を確保することで、何とか継続できている現状なのです。
日本で女子サッカーによって生活維持ができない状況もあり、ドイツや米国のリーグにプロとしての活躍の場を求め、単身で自費渡航する事情もあるのです。
子供の頃から、そんな逆風の中でサッカーを続けてきた彼女達が、世界の頂点に立ったのですから嬉しいことです。
W杯での、対ドイツ、対スウェーデン、対アメリカ戦と、高さや早さ強さといった身体能力は、なでしこは大きく劣勢でした。
しかし個人スキル以上のところ、仲間を信頼して一丸となって戦うことや、最後まで諦めない姿勢は、子供の頃から男子の中で揉まれながら居場所を確保してきた、続けることすら難しい環境にある彼女たちだからこそできたとも言えると思います。
《臍(ほぞ)を固める》
ほぞとは『へそ』のことです。
人が決意する時には、腹に力を入れてヘソの辺りを堅くすることから、『堅く決意し、覚悟を決めること』を指した諺です。
『腹をくくる』という表現に近く、英語だとコミットメントという単語で表現されるものです。
なでしこJAPANの選手は例外なく、大好きなサッカーを続ける為に腹をくくり、どんな困難をも乗り越えるとコミットメントしたに違いないと思います。
そんな彼女達が国民的な英雄となり、脚光を浴びることによって、選手たちがサッカーに少しでも多く集中できるように、生活面での負担を楽にしてあげられるようになることが、今回の優勝によって実現できれば、彼女達の苦労を間近で見てきた元関係者として嬉しいと思います。
日本サッカー協会には、6種のチームカテゴリーがあります。
第1種…年齢制限のない、男子のプロチーム、アマチュア一般社会人チーム(実業団、クラブ、学生・社会人の混合等)、大学。
第2種…18歳未満のチームで、ただし高等学校在学中の選手に対しては、年齢制限の適用除外。(男子高校生年代のチーム)
第3種…15歳未満のチームで、中学校在学中の選手は制限の適用除外で、男子中学生年代のチームではあるが、2000年度から第3種チームに女子選手の登録が認められるようになった。
第4種…12歳未満の選手で構成されるチームで、小学校在学中の選手は制限の適用除外であり、また女子選手の登録も認められている。
女子…第5種と呼ばれる事がある女子選手で構成されるチームで、年齢に関する制限はない。
女子の競技人口が男子に比べて極端に少ない為、女子チームによる競技機会は限られているのが現状であり、第3種・第4種チームへの女子選手の登録、あるいは第3種・第4種向け競技会への(年齢制限付き)女子チームの参加を認めるなど、機会増加の努力が続けられている。
シニア…40歳以上の選手で構成されるチーム。2000年度に新たに設置された区分である。
これらの内、太字の部分は、歴代なでしこJAPANの皆さんの功績で手に入れたと言えるもので、今回の世界制覇により、もっと多くの少女達がサッカーを始めて、サッカー人生を歩み易い環境整備ができていくことを期待しています。
W杯優勝後に澤選手が発信した以下のコメントがあります。
「我々のしていることは、ただサッカーをするだけではないことを、意識してきた。我々が勝つことにより、何かを失った人、誰かを失った人、怪我をした人、傷ついた人、彼らの気持ちが一瞬でも楽になってくれたら、私達は真に特別な事を成し遂げた事になる。
こんな辛い時期だからこそ、みんなに少しでも元気や喜びを与える事が出来たら、それこそが我々の成功となる。
日本は困難に立ち向かい、多くの人々の生活は困窮している。
我々は、それ自体を変えることは出来ないものの、日本は今復興を頑張っているのだから、そんな日本の代表として、復興を決して諦めない気持ちをプレイで見せたかった。
今日、我々にとってはまさに夢のようで有り、我々の国が我々と一緒に喜んでくれるとしたら幸いです」(全文)…というものです。
これより前、今年5月1日にフィギュア女子世界選手権で4年振りの復活優勝を遂げた安藤美姫選手の以下の優勝コメントも素晴らしかったと思います。
「今回の世界選手権、特にフリーは、日本のことを考えながら滑った。
今までも、『美姫ちゃんの演技は、すごく沢山の人を笑顔にしてくれるんだよ』と言ってもらうことはありました。
その言葉はすごく嬉しかったけれど、でも本当にそんなことが自分にできているのかな? 自分のスケートが人の力になれているなんて、感じたことがなかったんです。
でも、今回の震災があって、『世界選手権が開かれるなら、ぜひ滑って。あなたが笑ってくれれば、私たちも元気になれるから』という言葉を、東北のファンの方に言われたんです。
だから今回は、そんな皆さんの言葉を信じて、世界選手権に出られる選手としての気持ち、日本の皆さんを思う気持ちを表現しよう、と。
こんな気持ちで試合に臨んだのは、本当に初めてのことです。
これも選手としての、自分の挑戦かな。
私の場合、小さなころに父とスケートを交換したというか…、父を失った代わりにスケートを手に入れた、という思いがあります(交通事故で父親が亡くなった直後に、スケートを始めた)。
だから私の笑顔は、スケートからもらったもの。
そのスケートで、今度は自分のことを応援してくださった人に笑顔を送れたらいいな、そんな気持ちだったんです。
それでもやっぱり、自分にはひとりでも多くの人の笑顔のために滑る力はないかもしれません。
そんな自信は、今までだってなかったし、今回もない。
でもこの世界選手権に限っては、自分にそんな特別な力がなくても、滑ることで自分の気持ちだけは、もしかしたら伝わるんじゃないか……そんな思いで滑ったのも、初めてのことです」(全文)と、何度読んでも素晴らしいスピーチを、安藤美姫選手はしました。
自分が4年間、思い通りの演技ができない間に、浅田真央選手やキム・ヨナ選手らが台頭し、安藤の時代は終わったとまでの酷評もある中での優勝でした。
そして、敗れた選手等がことごとく自分の演技についてのコメントのみを語る中で、安藤選手は日本を元気づけたい、皆に感動を伝えたい、感謝の気持ちで滑りたいと語って見せたのです。
澤選手のコメントと同様に、自分の目指すところに向かって腹をくくって努力していく内に、周囲への感謝と皆の応援を力にして応えていきたいという思いが出てきているように思います。
自分の為にという力だけでは限界があり、皆の為、公共の為、社会の為、日本の為、世界の為との思いが不可能なことを現実にしたというようにも感じます。
仕事に向かう姿勢、そして経営を考える時に大切にしなければならないスタンスの『利己ではない利他の精神』での成果にも見えますが、いかがでしょうか。