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『起死回生』 ― 飛躍のための決断について考える ―

2010年07月20日

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「起死」は死人を起き上がらせることを指し、「回生」は死んだも同様のものを蘇らせることの意味です。
死に瀕したもの、滅びかかっているものを再び生き返らせること、元に戻すことを指して「起死回生」という諺ができました。
これが進んで、「もう見込みがない、救いようがないと思われるような状態から、息を吹き返らせること」の意味でも使われるようになってきました。
南アフリカワールドカップもスペインの優勝で幕を閉じました。
開幕直前まで結果が出せず、コンディションやまとまりが疑問視されていた日本代表も、大胆な意識改革と戦術変更により、見事に予選突破し、世界の下馬評を覆す大活躍を見せました。
日本代表にとっては、正に起死回生の大会になったと思います。
小生は、古くからのサッカーファンなので、サッカー漬けの至極の時間を過ごしながら、万感の思いで涙して見ておりました。
サッカーに興味の無い方もいらっしゃると思いますが、厳しい状況から発想転換と変革で立ち直っていった過程は、ビューティビジネスの現状からみて、サロン経営に参考になると考えて、取り上げてみたいと思います。
小生の好きな分野の話題だけに、趣味の世界に入り込み過ぎてしまう恐れもありますが、四年に一度なのでお許しいただき、参考にして頂けると幸いです。

《情報鎖国》

1964年の東京五輪開催を控え、サッカー人口が少なかった日本は、西独からデットマール・クラマーをコーチとして招へいし、近代サッカーを学び、その東京五輪ではアルゼンチンを破ってベスト8まで進みます。
1968年のメキシコ五輪を目前に、クラマーは退任しますが、彼が育て上げた釜本邦茂、杉山隆一等を中心としたチームは、銅メダル獲得という快挙を成し遂げます。
予選リーグで、ブラジル・スペイン両チームと引分け、ナイジェリアに勝ち、準々決勝ではフランスに勝利、三位決定戦でも地元のメキシコを下すなど、強豪国を次々と撃破しての堂々たる結果でした。
釜本は得点王に輝き、ヨーロッパや南米の有力クラブから次々と入団オファーが入りました。
当時のオリンピックサッカーは、アマチュアしか出場資格がなく、プロリーグへ有力選手を送り出している強豪各国にとっては、五輪は各国代表選手を出場させられないマイナーで質の落ちる大会とみなされていました。
しかし、サッカー後進国の日本が、サッカー先進国を次々と撃破した事は世界を驚かせました。
クラマーは日本を去りましたが、彼が提唱したサッカー選手強化策は、その後の日本サッカー協会に、岡野俊一郎、長沼健、川淵三郎など、クラマーの直接指導を受けた各氏によって受け継がれて実践されていきました。
常設リーグをつくること(日本リーグ→Jリーグに発展)、子供達を各地で代表育成して選抜していく日本独自のトレセン制度などがクラマーの強化策でした。
三菱重工、日立製作所(現日立)、古河電工、東洋工業(現マツダ)、トヨタ自動車(現トヨタ)、日産自動車、ヤンマー等のサッカー育成に熱心な企業がチームをつくり、日本リーグを東京五輪の翌年に発足させました。
その後メキシコの銅メダルで人気は上がりますが、釜本が引退する1970年代後半になると、代表チームの低迷もあり、日本サッカー不毛の時代を迎えます。
小生の少~青年期はその時代で、サッカー競技人口は少なく、校庭を占領して人数も大勢使う邪魔なスポーツとして、サッカーゴールも体育倉庫脇の隙間に錆びついたまま放置され、鉄棒代わりに使われる始末でした。
サッカー好きの子供達も、野球やバスケ、陸上などをやらざるを得ない環境になっていました。
しかし、前述のサッカー応援企業達が1993年のJリーグ発足以降も、各々レッズ、レイソル、ジェフ、サンフッレチェ、グランパス、マリノス、セレッソなど球団スポンサーとして強い信念を持って日本サッカー界を支え続けてきたと思います。
取り分け、レッズを支えている三菱は、日本サッカーの低迷期に、一社スポンサーで二十年間に渡り「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組を放送し続け、海外のサッカーを紹介しました。
当時唯一のサッカー専門番組で、東京12チャンネル(現テレビ東京)のローカル番組でしたが、海外のサッカーの素晴らしさを録画ながらも見せてくれました。
岡野俊一郎氏(メキシコ五輪日本代表コーチ・国際オリンピック委員会委員)の理解しやすい解説と、金子勝彦アナウンサーのサッカーを愛する実況との組み合わせが絶妙でした。
小生もこの番組を見て、W杯というすごい大会があることを初めて知りました。
最初は生中継ではなく、W杯決勝戦や三位決定戦、準決勝ぐらいまでを、一~二ヶ月後にやっと見られるというものでした。
1974年の西独W杯で、決勝のオランダ対西独戦を初めて生中継したのもこの番組でした。
クライフとベッケンバウアーの対決という歴史的放映でした。それまでは、日本ではW杯は放映されず、五輪以上に世界中の人が見て、参加するスポーツイベントがあること自体を知る人も少なかった時代だったのです。
今回の南アフリカ大会のように、ほとんどの試合をリアルタイムに日本で見られることは、サッカーファンとしては本当に幸せなことです。

《育成とは》

クラマーの志を受け継いだ、日本サッカー協会関係者や応援企業の粘り強いサッカーに対する愛情があって、今のサッカーがあると小生は感じるのです。
1993年のJリーグ発足を経て、サッカー人気が一気に盛り上がります。
同年の①「ドーハの悲劇」で、アジア最終予選最終試合のロスタイムに失点したことで、W杯米国大会への初出場を逃します。
1996年アトランタ五輪でブラジルを破る②「マイアミの奇跡」を中田英寿達が起こします。
翌年には、マレーシアでイラン相手に延長の末に、③「ジョホールバルの歓喜」でフランスW杯への初出場を決めます。
さらに、④小野、稲本、遠藤等を中心に1999年のナイジェリアユースW杯で、イングランド、ポルトガル、ウルグアイなどを撃破しての準優勝。
そして、⑤日韓W杯での初勝利と決勝トーナメント進出、⑥ドイツW杯での完敗とその後の立て直しを経て、南アでの汚名返上へと続いてきたのです。
①~⑥の経験の上に、今回の大会結果があると思うのです。
その間、オランダ人・オフト、ブラジル人・ファルカン、日本人の加茂・岡田、フランス人・トルシエ、ブラジル人・ジーコ、ユーゴのオシム、そして岡田武史氏の復帰と、西独のクラマーも含めサッカー大国の考え方を監督を通じて取り入れて、集大成させ進化してきたことが今回の結果に結び付いたと思います。
その間クラマーが提唱した育成システムを、皆で支え続け、そのトレセン制度から、中田英寿、小野伸二、中村俊輔、遠藤保仁、本多圭佑等の沢山のファンタジスタの素材達をトレセンによって見出して、磨いてきたのです。
我々が見習わなければならない大切な点は、目標に向かう為に定めた理念を決して変えないで、信じて貫き通す勇気を持ち続けたことだと思います。
クラマー氏が日本サッカーの父と現在も呼ばれるのは、後進者がそれを守り続けてきたからだとも思います。
サロン創業者の思いもそのぐらい大切にすべきだと感じます。

《大英断》

信じたものを変えない勇気の対極として、今までの考えを全部捨て去り、ゼロから生まれ変わる勇気が必要な場合もあります。
今回のW杯開幕前後にTV放映された、中田英寿氏と本田圭佑選手の対談をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
その中で、本田選手の「今までの自分のサッカーを全部否定しなければいけなかった。」との発言が非常に印象的でした。
Jリーグから、海外へ活躍の場を求めた彼はオランダのチームへ移籍するのですが、いきなりそのチームが2部リーグに陥落してしまったそうです。
勢い込んで行ったオランダでいきなり下部リーグの試合です。
しかも、海外での実績が無い彼は、注目もされず、低レベルの国から来た選手と差別もされ、行き詰ってしまったそうです。
学生時代とJリーグでは、ゲームを組み立て、他の選手を活かす華麗なパスを出す選手として有名だった彼は、考えを変えて、自己革新に取り組みます。
2部リーグでいくら良いアシストをしても目立たないし、アピールできず、試合に出してもらうことすらもできない。
アピールする為には点を取るしかないと考えた彼は、今まで自分がこだわっていたサッカーに対する考え方を全部否定しなければならなかったと、中田氏との対談の中で語っていました。
自分全てを否定するとはいっても、自信まで無くすのではなく、「思い」を変えたのでしょうが、大変な勇気が必要なことです。
自分を変えなければ成功しないし夢を叶えられない状況だから、今まで一番大切にしてきたサッカー哲学や、自己のコダワリも捨てて、自己変革によって輝けたとも思います。
オランダでチームを2部で優勝させ、得点王になった彼は、監督、チームメイトから信頼されてキャプテンとなり、ファンからも愛されましたが、更に高度なサッカーを目指して、ロシアリーグに移籍し、今大会南アフリカで、世界の注目を浴びたのは御承知の通りです。

《起死回生》

もう一人、死の淵から這い上がった様な男がいます。
岡田武史監督です。
日本代表のコーチだった1997年に、仏国W杯のアジア予選で、予選突破が絶望的となった為に突然解任された加茂監督に代わって、遠征中の中央アジアで監督を引き受けざるを得なかった事から全てが始まります。
ジョホールバルの歓喜でW杯初出場を果たすものの、本大会では三連敗でグループリーグ敗退。
監督在任中は国立競技場で生卵を投げつけられたり、カズや北澤を本大会メンバーからはずしたことによる嫌がらせ電話、自宅へゴミや石を投げこまれて、二度と代表監督はやらないと家族と約束していたそうです。
しかし、オシム前監督が病に倒れ続行不能となった際に、やり残したことがあると仏国大会のリベンジに燃えて復帰しました。
フランスでの完敗後、コンサドーレ札幌や横浜Fマリノスの監督として自分の考える理想のサッカーを模索してきた彼は、代表でもその道を貫いてきました。
日本人の俊敏性を活かして、相手よりも早く動き回って得点を狙う華麗なサッカーです。
「遠藤のチーム」、「俊輔のチーム」と自ら公然と言ってはばからない程、ファンタジスタ達の中盤からパスによりボールを早く動かす攻撃的サッカーです。
ところが、本大会を間近にした、最終的な仕上げ段階のテストマッチの四連敗で、自ら辞任の話までするほど追い込まれました。
岡田氏も、本田選手同様に過去を捨てる勇気を持ち、大会直前に大英断をしたのだと思います。
俊輔選手の体調の悪さもあったのでしょうが、中心に据えて来た彼を外して、本田、松井、大久保、阿部といった選手達を起用して、サッカーの考え方自体までも変えて臨んだ成果が今大会の予選突破だったのでしょう。
私達は何らかの原因で自分の理想通りに進まなくなり、大きな決断を迫られる場合があります。
自分の思い描く理想をそのまま実現したいと、誰もが多かれ少なかれ持っているものです。
それは決して悪いことではなくて、夢や希望を持って生きていく方が良いことでしょう。
しかし、今までの自分の思いやスタイルを変えると、何となく屈辱的な気持ちを覚えたり、激しい葛藤が心の中で生まれる場合もあり、心の変革にブレーキをかけがちです。
経営者ともなれば、どこが間違っていたのかと自分のやり方を否定する嫌な感覚を持つので、拒絶反応も出ると思います。
自分の生き様や成功体験というプライドを誰もが大切にしているからです。
こんなプライドを手放すことは非常に勇気がいることだと思いますが、20代前半の本田選手(新入社員世代)も50代前半の岡田氏(経営者世代)も追い込まれた局面でそれをやってのけたんだと思います。
経営環境が厳しい局面で、貫き通す決断をするのか、思い切って全部白紙にして考え直す英断をするのかが、経営者の一番大切な仕事と思いますが、皆様はいかがお考えでしょうか。

今回は、神戸メンタルサービス合資会社の所属カウンセラー・浅野寿和氏のブログ「心の砦」を一部引用、加筆しました。